ラリー・フリント

※この記事には、作品の内容に触れる表現や
ネタバレを含む場合があります。 未視聴の方はご注意ください。




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ラリー・フリント コレクターズ・エディション



ラリー・フリント
The People vs. Larry Flynt


作品データ

1996年|アメリカ|法廷ドラマ・伝記
監督:ミロス・フォアマン
出演:ウディ・ハレルソン、コートニー・ラヴ、
エドワード・ノートン、クリスピン・グローヴァー ほか


下品で最低、でも異様に自由な男

主人公ラリー・フリントは、
ポルノ雑誌『Hustler(ハスラー)』の創設者。

彼は知識人でも理想主義者でもない。
口は悪く、態度も最悪。
女性差別的で、品性はほぼゼロ。

それでも彼は、
「他人に不快だと思われる表現」を
一切ひるまず世に出し続ける。

映画は、
彼を英雄としても被害者としても描かない。
ただ一貫して、
どうしようもなく下品だが、異様に筋を通す男
として描いていく。


表現する自由 vs 守られるべきモラル

『Hustler』は瞬く間に物議を醸す。
過激な性的表現、宗教・政治への挑発、
「これはやりすぎだろ」と言いたくなる内容ばかり。

当然、訴訟の嵐。
各州で販売禁止、裁判、差し止め。

ここで登場するのが、
若き弁護士アラン・アイザックマン。
彼はラリーの人間性にはまったく共感しない。

それでも彼は言う。
「こいつを守らなきゃ、
“嫌われる表現”は全部消される」

この映画の核心はここにある。
表現の価値は、その中身で決まるのか?
それとも、守られる“権利”として存在するのか?


愛と破壊のパートナーシップ

ラリーの人生に大きな影響を与えるのが、
妻であり共同経営者のアルシア。

破天荒で依存的、
ドラッグと激情に支配された関係。
支え合っているようで、
互いを壊し合ってもいる。

そしてある事件をきっかけに、
ラリーは銃撃され、下半身不随となる。

ここから彼の人格はさらに尖り、
怒りと挑発は加速していく。

この映画は、
成功物語ではなく、
自由を振り回すことで自分も壊れていく物語
として描かれる。


問われるのは「誰を守るのか」

物語のクライマックスは、
合衆国最高裁まで持ち込まれた裁判。

争点は、
公人に対する侮辱的・虚偽的な表現は
どこまで許されるのか。

ラリー自身は、
「自分が勝ちたい」だけ。

だが弁護士は理解している。
ここで負ければ、
政治風刺も、過激な批判も、
すべて「不快だから」という理由で消される。

最終的に下される判断は、
ラリー個人の勝利ではない。
言論全体の射程を広げる判決だった。


この映画が不快である理由

この映画は、
観ていて気持ちが悪い場面が多い。

主人公は共感しづらく、
擁護したくない言動も山ほどある。

でも、
「嫌いだから排除していい」
という論理を飲み込んだ瞬間、
自分が誰かに排除される側になる可能性も生まれる。

映画は問いを突きつける。

あなたは、
自分が不快だと思う表現が
守られることを許せるか?


表現の自由は、きれいじゃない

『ラリー・フリント』は、
表現の自由を美談にしない。

それは下品で、騒がしく、
扱いづらく、時に誰かを傷つける。

それでも、
「誰かが決めた正しさ」によって
簡単に切り捨てられていいものではない。

自由とは、
好きなものを守る権利ではなく、
嫌いなものが存在するのを我慢する力なのだと、
この映画は静かに突きつけてくる。

観終わったあと、
スッキリはしない。
でも、
言葉を使うことの重さだけは、
確実に残る一本。

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